代表者プロフィール
1.どんな子供だったか?
ワンパクな少年時代。とにかく動くのが大好きで小学校は歩いて30分の距離をいつもダッシュで駆け抜けていったのが懐かしいです。すぐ走ってどこか行ってしまうのでスーパーではよく迷子になってました、東京ディズニーランドではぐれたときは本気で親が心配したそうです。小学生時代はサッカーや野球に打ち込み本気でプロ野球選手とJリーガー2足の草鞋で活躍するんだと夢見る少年時代でした。その夢に親はとても協力してくれました。家にバッティング用のネットを張ってくれて仕事から帰ってくるとボールを投げてくれてそれをネットに打ち込むのが日課でした。中学に上がると愛知県内でもトップになるほどの野球のクラブチームに所属させていただきました。家からグラウンドまで1時間以上かかる道のりにもかかわらず親は送り迎えしてくれました。ここでの練習は本当に厳しく試合に負けると高速の出口からグラウンド(3時間以上)まで走って帰った覚えがあります。そこで最初の挫折です。スター選手がそのチームや他チームにいました。現中日の堂上選手と対戦し実力差を見せつけられたときにこれはどう頑張っても勝てないと心の底から思いました。
2.高校時代の挫折と小栗仁也氏先生との出会い
高校から陸上を本格的に始めて、練習すればするだけ早くなる感覚、大会で走れば自己ベスト、とメキメキと実力をつけていきました。2年の夏には県総体で準優勝し一躍名を挙げて、インターハイ準決勝進出などの結果を出し、大学からの進学のお誘いが関東関西から引く手あまたでした。来年は全国制覇だと意気込んで冬季トレーニングをしているときでした。原因不明の右足首痛になり全く走れなくなりました。翌年、全国制覇は夢とチリ、周りの大きな大きな期待を裏切ってしまい、そしてライバルとして競い合っていた同県の選手がインターハイ優勝した瞬間をテレビで見て自分は負けたっと劣等感に苛まれました。その後、足の痛みはおさまらず2年間まともに走ることができませんでした。そんな時に大学陸上部の同期から紹介頂き、現在の師匠である小栗仁也先生と出会い、施術を受けました。施術後、立ち上がってみると別のカラダになったかのうような感覚と痛みがなくなっていることに衝撃を受けました。「もう走れないかもしれない」と絶望していた私にとって復帰に向けて一筋の光が差した瞬間でした。
3.サラリーマン時代に学んだこと
「学んだことは本気で仕事をする」ということす。その部署では仕事は現場のムダ、ムリ、ムラを炙り出し資料にまとめ目指す姿(青写真)を描いて、理想に至った場合にどれだけ利益が生まれるのかを提案し、実際に改善する部署でした。趣味の時間よりも家族の時間よりも寝る時間を削ってまでも仕事をする集団でした。本社、グループのどこが黒字でどこが赤字か、赤字を黒字にするためにどう取り組むのか、ただ与えられた仕事を一生懸命こなすのではなく、会社が存続し続けるために本気になって目の前の問題を解決していました。会社で深夜、他の部署の方はみんな帰っているにもかかわらず生産調査課はみんな机に座り、しかも今仕事が始まったかのような強い目力を見たときこの部署の人たちが会社を支えているのだと強く感じました。そんな経験をさせて頂いたからこそ、自分が本気でやる仕事は会社のためではなく人のために本気になれる仕事がしたいと思いました。見返りがなくても会社のために尽力する姿は今でも仕事をする上では僕の見本です。
4.マシンとの出会い、マシンの社長との出会い
マシンとの出会いは師匠である小栗仁也氏から面白い器具があるから一度見てみろっと言われたのがきっかけです。 その器具は元気作りジム鍛錬西尾店にあり西尾に向かいました。お店に入るとまず驚いたのはお客様の活気です。お店の中には10人ほどの方がマシンを使用していて一人一人が自分の身体を元気にしようと頑張っている姿、そして椅子に座って30分ほど眺めているとひっきりなしにお店の中をお客様が生き生きとした表情で出入りする姿にこれから自分がやりたい青写真とダブりました。
マシンを実際に使ってみるとさらに驚きました。マジックのように足が軽くなる、身体が軽くなる感覚がありました。
また滋賀県にある鍛錬本社に出向いたときに大岡社長と初めてお会いしました。大岡社長と話しているとジムに右肩を痛そうにするおじさんが入ってきて昨日車に轢かれたどうにかして欲しいといいました。大岡社長はおじさんの肩を触り「これはいけませんな~」と言いながら肩を少しずつ動かしだしました。5分もするとそのおじさんは左手と同じように右手も上がるようになり喜んで帰っていきました。「今のおじさんは会員さんですか?」と社長に聞くと満面の笑みで「いや、知らんおっちゃんや元気になってくれればそれでいいんや」と言いました。社長の姿を見たときにこの人もサラリーマン時代の上司同様見返りなく仕事をしている、さらに人に喜んでもらうために尽力していると強く感じ、マシンを入れようと決意しました。
5.魂の入れ物づくりを志そうと決意した瞬間
転職後、アスリートをメインとしたサポートをこれからしたいと思っていました。東海地区のアスリートを全国区へっというのが僕が高校時代どん底を経験し愛知の大学へ進学し関東の選手に勝ちたいという思いでやっていたからこそ思う志だと思っておりました。 そんな時に祖父が交通事故で背骨を骨折し寝たきりとなりました。祖父はダンス教室に毎日通ったり、毎日1万歩歩かないと気が済まないほど活発に動き回り豪快に笑うおじいちゃんです。しかし、ベッドに寝ているおじいちゃんは別人のように老け込み筋肉が一気になくなりテレビを見ているおじいちゃんは本当に寂しそうに見えました。そんな姿を見たときにおじいちゃんを元気にしたい!と心の底から思いました。おじいちゃんを元気にするためにどうしたら良いのか?とそれから考えるようになり考えれば考えるほど自分の人生かけて本気で仕事をするのはアスリートに対してというよりも、誰でも気軽にカラダのことを学べて、どんな方でも希望をもって元気になれるスポーツジムを作りたいとの志が作られていきました。また、腰痛がきっかけで仕事を退職した女性を1年かけてサポートしたのですが、最初は朝起き上がるのに30分かかり、家から全く出られないという状況でした。最初は僕の施術は全く効きませんでした。衝撃でした。師匠に相談したところその人は労うこと、感謝することが足りないんじゃないかと言ってくださいました。その女性に色々聞いてみると介護の仕事をしていて人手がたりないため仕事が全部私のところにしわ寄せがくる、なのに給料は少ない、これだけ頑張っているのに私は報われない、ということでした。僕はそんな状況でも助けてくれる人はいるんじゃないですか?どんな些細なことでも良いので人を責める前に感謝してみてくだいと伝えると次の週から緊張していた体が変わっていきました。僕の施術にも身体を委ねて頂けるようになり今ではハワイ旅行へ行く計画を立てています。こんなお客様のように元気になって「未来に希望をもってほしい」そう思いこれよりの人生をかけて骨格の仕組みを学ことができる場所を作ろうと決めました。